【雑考】『天幕のジャードゥーガル』『銀河の一票』に見る「怒り」と「仲間」について

雑記

※『天幕のジャードゥーガル』アニメ版、『銀河の一票』本編の内容に触れます。

関係者各位

いつも大変お世話になっております。
元道庁職員の白川部けいたでございます。

標記の件につきまして、下記のとおり雑考いたします。

最近見た二作品が、妙に似ていた

最近、『天幕のジャードゥーガル』と『銀河の一票』を見ました。片方は13世紀のモンゴル帝国を舞台にした作品、もう片方は現代日本の東京都知事選を舞台にしたドラマです。時代も場所もジャンルもまったく違います。普通なら、同じ棚に並べて考える作品ではありません。

ところが、見終わったあとに残った感覚が妙に似ていました。

どちらも、既に巨大な権力や秩序を持っている側に対して、その外側に置かれた人間たちが挑む物語です。そして、その挑戦を動かしているものが、きれいな理想だけではない。かなり生々しい「怒り」なのです。

『天幕のジャードゥーガル』では、シタラ(ファーティマ)とドレゲネが、自分たちから多くを奪ったモンゴルという巨大な支配秩序に対して、それぞれの思いを抱えながら抗っていく。『銀河の一票』では、政界を追い出された星野茉莉や五十嵐隼人、雲井蛍たちと、政治の世界とは無縁だった月岡あかりが組み、既存の枠組みに挑戦していく。

もちろん両作品の描いている出来事を同列に扱うつもりはありません。モンゴル帝国下の支配・統治と、現代の選挙・政治はまったく別物です。ただ、物語の構造として見ると、「理不尽を受けた側が、その理不尽への怒りをきっかけに、既存の秩序へ挑む」という共通点があります。

そしてもう一つ。二作品とも、主人公が一人で戦わない。そこに「仲間」がいる。

今回は、最近見たこの二作品を通して、「怒り」と「仲間」という二つのものについて私が考えていることを書きます。作品レビューというより、作品を見て考えたことの雑記です。

『天幕のジャードゥーガル』公式サイト | 2026年7月テレビ朝日他にて放送
『天幕のジャードゥーガル』TVアニメ化!13世紀モンゴルを舞台に元奴隷の少女が帝国を揺るがす物語。アニメーション制作はサイエンスSARU。
銀河の一票 | 関西テレビ放送 カンテレ
毎週月曜よる10時 主演・黒木華、野呂佳代と初タッグ!政治の世界で生きてきた女性×市井(しせい)に生きる女性——出会うはずのなかった2人が目指すのは…東京都知事!?異色のバディがお届けする、新たな“選挙エンターテインメント”が開幕!

シタラとドレゲネ―モンゴルに対する復讐―

『天幕のジャードゥーガル』の主人公であるシタラは、もともと知識を愛し、学ぶことを求めていた少女です。しかし、自分の意思とは関係なくモンゴルの世界へ組み込まれ、そこで生き延びるために知識を武器へ変えていくことになります。

ドレゲネもまた、モンゴルの権力構造の中で生きる女性です。二人の立場も経験も、抱えている個人的な思いも同じではありません。だからこそ、私は二人の関係が面白いと思いました。

単純な「同じ被害者だから仲良くなった」という話ではない。お互いに、自分が何を望んでいるのか、何に怒っているのかをかなり早い段階で共有しました。目的のために相手を利用するだけなら、そこまで自分の内側を見せる必要はありません。しかし二人は、違う人生を歩いてきたまま、相手の怒りを知り、それでも同じ方向へ進もうとします。

そしてアニメ版の序盤でシタラがドレゲネに告げ、終盤では逆にドレゲネがシタラへ返すフレーズがあります。

「ふたりでなら嵐も起こせましょう」(シタラからドレゲネへ)

「ふたりでなら嵐も起こせるわ」(ドレゲネからシタラへ)

最初は一方から差し出された言葉だったものが、最後には相手から返ってくる。

「私はあなたとなら戦える」という言葉が、「私もあなたとなら戦える」という言葉になって戻ってくる。私はここに、仲間になるということの尊さがかなり凝縮されているように感じました。

一人で怒っているだけなら、それは個人の感情です。しかし、その怒りを理解する人間がもう一人現れると、感情は行動へ変わり始める。二人でなら、本当に嵐を起こせるかもしれない。

星野茉莉と月岡あかり―都知事への挑戦―

一方、『銀河の一票』はずっと現代的です。与党幹事長の娘であり、その秘書として政治の内側を知り尽くしていた星野茉莉が、政治の世界から転落し、偶然出会ったスナックのママ・月岡あかりを東京都知事候補として担ぎ出します。

こちらの二人で私が好きなのは、役割分担です。

あかりは候補者として人前に立つ。人と話し、人の話を聞き、自分の言葉で訴える。一方の茉莉は、政治の仕組みを知る側として、選挙の設計や判断を支える。二人とも万能ではありません。そして作品は、どちらか一人を万能にしようとしない。

また、三国演義の劉備のように、月岡あかりを誰でも味方にしてしまう人徳者のようにも描かない。

政治経験のないあかりが突然すべての制度を理解し、超人的な政治家になるわけではない。逆に、政治の世界を知る茉莉が自分で候補者になり、全部を背負うわけでもない。

「自分ができること」と「相手にしかできないこと」が、かなりはっきり分かれています。

私は、この役割分担が美しいと思いました。

仲間というと、同じことを一緒にやる姿を想像しがちです。しかし、本当に強い組み合わせは、同じ仕事を二人で半分ずつやることではなく、互いに違う仕事を引き受けることなのかもしれません。

前に立つ人間と、後ろから支える人間。感覚で人を動かす人間と、構造を読む人間。専門分野Aと専門分野B。どちらが上でも下でもなく、それぞれが自分の役割を担う。『銀河の一票』の二人を見ていると、「仲間」とは同じ能力を持った人間の集合ではないのだと思わされます。

怒りは悪い感情なのか

ここで、二作品に共通するもう一つの要素、「怒り」について考えたいと思います。

怒りという言葉には、あまり良い印象がありません。怒鳴る、感情的になる、冷静さを失う。アンガーマネジメントという言葉が広まったことからも分かるように、現代社会では怒りは「うまく抑えるべき感情」として扱われることが多いように思います。

古代ローマのストア派哲学者セネカは『怒りについて』で、怒りを人間の行動に必要な力とは見ませんでした。怒りは不正を受けたという判断と報復への欲求から生じ、理性を乱しやすい。正しいことをするために必要なのは怒りではなく、理性的な判断と意志である…。大まかに言えば、そのような方向の議論です。

先に白状しておくと、私はセネカの『怒りについて』を通読していません。本稿を書くにあたり、この論点について概要と研究・解説を確認した程度です。いずれちゃんと読みたいと思っています。

怒りについて 他二篇/セネカ, 兼利 琢也|岩波文庫 – 岩波書店
ストア派の情念論を知るうえで重要な「怒りについて」.他に「摂理について」「賢者の恒心について」の2篇を収録.新訳. セネカ 著

セネカの言っていることは、よく分かります。怒りに任せて判断すれば間違える。怒りそのものを正義と勘違いするのも危険です。

ただ、それでも私は、怒りという感情を全面的に悪いものとして扱うことには少し違和感があります。

一方、同じ古代の思想家でも、アリストテレスの怒りに対する態度は少し違います。

『ニコマコス倫理学』では、怒りすぎることだけでなく、「怒るべきことに怒らないこと」も問題だと考えられています。

誰でも怒ること自体は簡単です。しかし、正しい相手に、正しい理由で、正しい程度に、正しい時に、正しい仕方で怒ることは難しい。
つまり、問題なのは「怒ること」それ自体ではなく、怒りが適切な対象と程度を持っているかどうか、ということになります。
私はこちらの考え方にはかなり納得します。

理不尽なことを目の前にしても、何も感じず、何も怒らず、ただ「冷静でいましょう」と言い続けることが、本当に常に賢明なのでしょうか。

「これはおかしい」と怒るからこそ、初めて見える問題もある。
もちろん、その怒りをそのまま相手へぶつければよいという話ではありません。

怒りは、結論ではない。
しかし、問いを始めるきっかけにはなり得る。

そう考えると、ここで思い出すのが松井一郎・元大阪市長の言葉です。

松井氏は自身の政治家人生を振り返り、政治家としての原動力は「怒り」だったと述べています。税金の使われ方への疑問や、既存の政治・行政への憤りが政治の世界へ入る動機だった、という趣旨です。

松井一郎氏が感服した「菅前総理の優れた喧嘩力」
前大阪市長の松井一郎氏が政治家にとって重要と語る「喧嘩力」とは一体どのようなものなのか? 喧嘩力という観点から、いまの政界について思うことを語ってもらった。
政治家の喧嘩力 | 松井 一郎著 | 書籍 | PHP研究所
政治の源泉は「怒り」にある――。議員の皆さん、議員辞めても食べていけますか? 選挙のたびに風見鶏、恥ずかしくないですか?

もちろん、この政治姿勢をどう評価するかは別の話です。松井氏のいう「怒り」をそのまま正義と同一視するつもりもない。怒りは「何かがおかしい」と気付くセンサーにはなるが、「だから自分が正しい」という証明にはならない。

また、松井氏自身や所属政党の政治的評価も本稿の主題ではありません。ここで面白いと思うのは、「怒り」を恥ずべき未熟な感情ではなく、何かを変えるための出発点として明確に位置付けていることです。

セネカは、正しい行動に怒りは必要なく、理性によって行動できると考える。
アリストテレスは、怒りすぎることだけでなく、怒るべきことに怒らないことも問題だと考える。
松井氏は、少なくとも自分自身については「怒り」が政治の原動力だったと語る。

私自身の感覚は、以前はセネカに近いものでした。しかし、3年前に北海道庁を辞めてからは、どちらかと言えばアリストテレスに近くなってきたと思います。そして、松井氏の言う「怒り」にも、その実践的な一つの形を見ることができます。

怒りは、判断そのものではありません。怒っているから自分が正しいわけでもない。しかし、「なぜ自分はこんなに腹が立つのか」と考えることによって、自分が何を大切にしているのかが見えることはあります。

怒りをそのまま他人へぶつければ、ただの破壊になります。しかし、怒りを問いに変え、調べ、考え、行動へ変えることができるなら、それは現状を変える入口にもなり得る。

『天幕のジャードゥーガル』も『銀河の一票』も、私はそのような物語として見ました。彼女たちは冷静だから立ち上がったのではない。最初に「許せない」「納得できない」というものがあった。その感情が、やがて計画や挑戦へ変わっていく。

同じ目的でも、同じ理由である必要はない

そして、ここで「仲間」の話へ戻ります。

シタラとドレゲネも、星野茉莉と月岡あかりも、広い意味では同じ方向を向いています。だから「同床異夢」という言葉では少し違います。

同じ場所を目指している。ただし、そこへ向かう個人的な理由が違う。

私は、この違いがむしろ大事なのではないかと思います。

仲間になるために、すべての価値観を一致させる必要はありません。同じ人生を歩いてきた必要もない。相手と同じ理由で怒る必要すらない。年齢も性別も、職業も収入も同じ必要はない。

重要なのは、「私はなぜここにいるのか」を互いに隠さないことではないでしょうか。

シタラにはシタラの怒りがあり、ドレゲネにはドレゲネの怒りがある。茉莉には茉莉が政治へ挑む理由があり、あかりにはあかり自身の理由がある。

それを無理に一つの美しい物語へ統合するのではなく、「あなたはそういう理由なのね。私はこういう理由。でも、今は一緒に進める」と確認できる関係。話せる関係。

私は、こちらの方が強いと思います。

同じ思想だから仲間なのではない。同じ性格だから仲間なのでもない。同じゴールへ向かう局面で、お互いの違いを知ったうえで、それでも隣に立つことを選ぶ。

「ふたりでなら嵐も起こせる」という言葉が響くのも、二人が完全に同じ人間ではないからでしょう。

一人がもう一人のコピーなら、二人になる意味はありません。違うものを持っている二人だから、二人になる意味がある。

賢くなくても良い

ここからは、(いつもの)少し青臭いことを書きます。

私は以前、大きなことを成し遂げる人間には、何でも分かっていて、先の先まで読めて、全部自分で判断できるような「賢さ」が必要なのだと思っていたところがあります。

物語の主人公にも、現実のリーダーにも、政治家や経営者にもついそういう万能さを求めてしまいます。

しかし、二作品を見ていると、別に一人で全部分からなくても良いのではないかと思えてきます。

『天幕のジャードゥーガル』のアニメ終盤で、シタラは自分について「ちっとも賢くありませんよ」と口にします。実際、作中でもしばしば相手に「してやられた…」という場面があります。それでもドレゲネは、「ふたりでなら嵐も起こせる」と返す。

このやり取りが私はかなり好きです。

賢くなくても良い。

分からないことがあっても良い。できないことがあっても良い。人前での演説が苦手でも良い。政策について即答できなくてもいい。

ただし、自分に何が足りないのかを知り、自分とは違うものを持った人を尊重できること。相手の力を借りることを敗北だと思わないこと。そして、自分にできることについては相手から任せてもらえること。

それができれば、一人で万能になる必要はないのかもしれません。

『銀河の一票』の茉莉とあかりの役割分担も同じです。二人とも相手になろうとはしない。茉莉はあかりの代わりに「人に届く候補者」になろうとはしないし、あかりも茉莉の代わりに政治のすべてを読み切ろうとはしない。途中、相手に依存しそうになることもありますが、ちゃんと言語化して越えていこうとする。

自分が相手より賢いことを証明するのではなく、自分にできないことを相手に任せる。

考えてみれば、こちらの方がよほど難しいことなのかもしれません。

一人で賢くあることより、二人、三人、四人で賢くなれること。

私は最近、その方が大きなことを成し遂げるうえでは重要なのではないかと思っています。

怒りと仲間が、野望を現実にする

こうして二作品を並べて考えてみると、「怒り」と「仲間」は別々のテーマではないのだと思います。

怒りだけでは、長くは続きません。自分の中で燃え上がり、場合によっては自分自身まで焼いて終わる。セネカが怒りを警戒した理由も、そこにあるのでしょう。

しかし仲間がいれば、怒りを言葉にできます。

「私はこれが許せない」と言ったとき、「なぜ?」と聞いてくれる人がいる。感情を計画に変える人がいる。自分が暴走しそうなときに止める人がいる。逆に、自分が諦めそうなとき、「最初に何に怒っていたのか」を思い出させてくれる人がいる。

仲間とは、怒りを増幅するだけの存在ではなく、怒りを現実の行動へ翻訳する存在なのかもしれません。

そして、仲間がいるからこそ、野望は「私がやりたいこと」から「私たちがやること」に変わる。

『天幕のジャードゥーガル』における「ふたりでなら嵐も起こせる」という言葉の使われ方は、その変化をとても端的に表しているように思います。

『銀河の一票』では、その言葉を使わず、候補者と参謀という役割分担そのものによって同じことを描いているように見えました。

理不尽への怒りが人を立ち上がらせる。違うものを持つ仲間が、その怒りを継続できる形へ変える。

そう考えると、大きな野望を現実にするために必要なのは、最初から完成された賢さではなく、「何かがおかしい」と感じる心と、自分一人では足りないことを認めて隣に立てる誰か、なのかもしれません。

少しだけ自分の話

最後に少しだけ自分の話をします。

私は昔から、物語の中でも歴史の中でも、何もないところから何かを作ろうとする人や、既に出来上がった秩序に対して「本当にこれで良いのか」と問いを投げる人に惹かれます。

その一方で、以前はそういう人物を「一人で道を切り開く人」として見すぎていたのかもしれません。もちろん、歴史を少し丁寧に見れば、朱元璋だって一人で明を建てたわけではありません。軍事には徐達がいて、政務には李善長らがいた。さらに時代を遡れば、劉邦の傍らには張良、蕭何、韓信がいます。英雄一人の能力を見るより、その人の周囲にどんな人間がいて、それぞれ何を担っていたのかを見る方が、最近は面白いと思うようになりました。

自分とは違う理由で同じ場所を目指す人。自分にできないことができる人。賢くない自分を、賢くないまま一緒に前へ進ませてくれる人。

そして、そもそも何かを始めるときには、格好の良い理念だけではなく、「ふざけるな」「このままで良いわけがない」という泥臭いむき出しの怒りがあっても良い。

怒りを正義そのものにしてはいけない。仲間を自分の道具にしてもいけない。けれど、怒りをすべて消し、何でも一人でできる賢い人間になってから動こうとしていたら、何も始まらないと思います。燻っている間に人生が終わってしまいます。ちなみに私は燻製も好きです。

『天幕のジャードゥーガル』と『銀河の一票』。まったく違う二作品を続けて見たことで、たまには、行政でも政策でもないそんなことを考えました。

以上、『天幕のジャードゥーガル』『銀河の一票』に見る「怒り」と「仲間」について雑考いたしました。

何卒よろしくお願い申し上げます。

令和8年10月1日

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